「アラフォー.com」編集長
ブログライターHIROMIプロフィール

46歳、うつ病と適応障害です。今は、心の風邪は考え方の癖を治せばいいんだよと言ってくれた知人とゆっくり、ゆっくり心のリハビリをしているところです。

1968年9月8日(身長49㎝、体重2,800g)、広島県廿日市市で命を受けました。産まれた時、首にへその緒を巻きつけ仮死状態で産声も上げず、脳に酸素が廻らず障害を持って生まれているかもと医師から両親は伝えられていたそうです。しかし、懸命の措置のお陰で死に至らなかったそうです。

私には兄が一人いますが、祖父が亡くなった6ヶ月後に誕生し、祖父の生まれ変わりだと祖母や親戚にとても可愛がられていたと言うことです。しかも、雪のように色白の赤ちゃんで自慢だったようです。

しかし、私は色黒で男の子みたい、まるで「山猿」だと言われていて、保育園に祖母がお迎えに来ても、私を忘れて兄だけ連れて帰ったこともあったそうです。

母が慌てて仕事から戻ってお迎えに来た時、楽しそうに遊んでいたという一匹狼的な性格は作られたのかもしれません。

この頃から自家中毒に煩った私は大きくなれないと言われて、食べては吐くを繰り返していました。が、しかし、予想に反し健康優良児、今でいう子どもメタボに成長していきました。

一気に身長が伸び、ぴったりと止まった後は横に大きくなる一方で物心ついた時から「百貫デブ」と虐められていました。

自家中毒を煩った理由をよくよく考えると、丁度、この頃、父は実家の農業を手伝うために田舎へ移り、母は自分の実家そばに兄と私の3人で生活をすることになりました。ストレスだったんでしょうね、多分。

しかし、父のことが大好きで一緒にいるときはいつもそばにいないと気がすまない子供でした。お互いがどうやって可愛がったらいいのか?どうやって甘えていいのか?分からないまま私が40歳の時に父は癌で他界しました。

母は、兄のことばかり可愛がり、何かあれば「お兄ちゃんは、頭いいから…いい子だから」と私は褒められた記憶が、全くありませんが覚えていないのかもしれません。

実は、私は養子に出すという話が進んでいたということです。ほんの5年前に知った事実です。

私が自分で理解できるまでは養子の話なんて、絶対にダメだと私を保育園に忘れて帰っていた祖母のお陰で養子に出ずに済みましたが、そんな必要のない子供だったのかな・・・と正直悲しい事実でした。

子供の頃は、周りに女の子が住んでいなかったせいか、男の子も野山を走り回り、食べたらダメだと言われていたヘビイチゴや野草を食べては怒られていました。しかも、運動神経がよくないくせして、どこからくる自信か飛べる筈のない川を飛んで落ちたり、野生児でした。

小学生の頃、食事をすればお腹を壊していました。勿論、太っていたのですから体温が高く「湯たんぽ、湯たんぽ」と言われていたのですが、中学生になり、気が付くと手足は冷え、便秘に悩まされるようになりました。ある朝、目を覚ますと手のひらが倍の大きさまで浮腫んでいました。慌てて病院へ駆け込むと「膠原病の疑いがあります。」と言われ、大きな病院を廻ることになりましたが、それ以来、変わったことはないのですが、血液検査では陽性反応が出ていたので予備軍と診断されました。

この時、既に子どもを持つのを諦めていました。体力を奪われることはこの病気に良くないからとはっきり原因の分からないために、特に子どもを産むときに気を付けないといけない、日本の蒸し暑い夏も気を付けるようにと。

小さい頃から父と一緒に暮らせていなかったため、早く結婚して、兄妹のような親子になりたいと願っていたのですが、結果叶わぬままです。でも、私自身が選んだ道なので結婚していないから淋しい・・・なんて思っていません。いいえ、楽しいのです。

最近、いじめによる自殺の報道が後を断ちませんが、もしかすると私もそのひとりになっていたかもしれない事件が中学二年の時にありました。小学生の頃から仲が良かった友達からいじめを受けるようになりました。授業の合間は教室にいれないほど、クラス全員が束になり私をいじめていました。悪口を言われたり、時には物を隠されたりしていました。誰にも言えず、図書館に逃げ込み息を殺して、時間が過ぎるのを待っていました。

勿論、母には言うことなんてできるはずもなく、ただただ我慢していました。

手首を見ては、切っても痛くないかもと思っていました。このまま居なくなったら、どれだけラクなのだろうと考えていました。

今思えば、既にうつ病に侵され始めていたのではないかと思います。

何とか中学生をやり過ごし、高校では楽しく学生時代を過ごすことができました。今でも仲が良く、何かあると心配してすぐにみんなが集まります。笑ったり、泣いたり、怒ってくれたりと。大学時代はまさにバブル時代でした。バブル時代は引く手あまたで仕事はすぐに見つかるような時代でしたが、結局コネがないと難しく、私はコネがなく最後まで仕事が決まらなかったのです。

それでも、中学生の頃から憧れていたアメリカ留学をしようとこころに決めていたので、仕事が見つからなくてなんとも思っていないような楽天的な考えをしていました。しかし、母を置いて行けないと自分で働いて貯めたお金で留学をしようと一先ず、先伸ばしにしました。
母のせいにしていますが、結局、私は一歩踏み出す勇気がなかったのかもしれません。

就職して5年経ったらアメリカに留学しようと思っていたのですが、バブルが弾け帰国子女も石を投げるとカーンッと音がするほどゴロゴロと増え始めた時代でもありましたので、余程、ビジネス英語ができるようにならないと帰国した時に仕事があるのか?と不安になり安定を選んでしまった私です。ここで勇気をもってアメリカに行っていたら、今の人生とは180度違ったものになっていたのでしょう。後悔先に立たずとは良く言ったものです。

20代・・・何をやっていたのか覚えていないほどです。仕事を頑張っていたかと言えばそうでもないような、恋愛をしていたかと言えば・・・記憶にあるのは、人生最大のデブから1年半をかけて14kgのダイエットに成功したことです。

ダイエットをしようと思っていたわけではなく、ただ楽しそう!と思って初めてウォーキングでするすると体重が落ちて聞きました。この時、小学6年生の時の体重まで痩せていました。やったー!!て感じでした。

そして、何故か嫌いだった20代から30代になった途端に憑き物が取れたようにやりたいこと、やり残したことを次から次へと始めました。一番楽しかったのが、独学で勉強していた英語をネイティブにならい始めたことによって、たくさんの外国人の友達ができていったことです。
そして、外国人の彼ができ、生まれて初めて結婚したいと思った人でもありましたが、相手は違っていました。育った環境や考え方が違うので些細なことですれ違いがあり、別れ・・・しかし、全く理由の分からない別れでしたので、この恋は今でも心のこっています。そして、この時に拒食症と過食症の繰り返しで、体重が40㎏を切りましたが、当時の私はまだまだ太っているから痩せないといけない、太っているから彼にフラれてしまったのだと思うようになりました。

今、当時の写真を見るとあばら骨がくっきりと出ているにも関わらず、痩せないといけない!とおもいました。心の風邪がどんどん酷くなっていきました。

しかし、周りの友達は私のことを「恋多き女」と呼んでいましたが、全く違っていて一人の人を思っている期間が長く、嬉しい時も悲しい時も大騒ぎをしていたためか、こう呼ばれていたのではないかと思います。

この時、深く傷ついたため自分を守るためにちょっといいな~と思ったらすぐに「好き!好き!」と気持ちを伝え、ダメならいつまでも気持ちを続けるよりか諦める方が友達を作っていったということもあり、人脈が増えていきました。

そして、色々な事情で転職しましたが、転職先が悪かったのです。そこでは仕事ができないのに私は一番仕事ができる、一番キレイと勘違いしている人と同僚にしなり、その人のコバンザメのようにひっついていないと生きていけないような同僚が上司と一緒に攻撃され、心の病が重症になりました。窓の外からこっちへおいでと私を呼んでいる。窓から飛び降りても大丈夫!とこんなことを口走っていたそうです。私は覚えていないのですが、友達が言っていました。

震え、めまい、過呼吸、急に涙が出てきて止まらない、自分はつまらない人間だと思ったり、いなくなった方がいいと思ったりしていたのは覚えています。人の目を見れなくなり、霊感商法にひっかかってしまいました。

今思えばバカだとは思いますが、その時はとにかく助けてほしいと思って信用してしまったのです。詐欺だと思ってからは、人生の勉強だったと思って忘れようと努力していましたが、最近また思い出させる出来事があったのですが、これはナイショということにさせて下さい。

うつ病になると薬は手放せなくなる、自分は価値のある人間なのか?とどんどんネガティブな考えしかできなくなりました。最近、知り合った人たちは「うつ?見えない、見えない。冗談でしょう」と本気にしてくれないし、「一人で生きていけるって顔していますよね」と男性から言われたりしますが、強そうに見える人の方が弱いのです。か弱く見える人ほど強くて、私が、俺が「助けてあげなければ」と思わせるのが上手な女性が多いのです。

強そうに見える女性は、強いのではないのです、弱いから強く見せているのです。そうしないと崩れてしまうのが分かっているから強そうに装っているだけなのに、どうして分かってくれないのだろうと思います。そこが少し辛いところもあります。でも、うつ病になってから、人の心が見えるようになってきました。誰を味方にしたらいいのか?誰がずるいことを考えているのか?そこを見極めて生きていきたいと思います。

40代になって誰もいないどこかの国にいってしまいたいと思っていることが多かったのですが、30代は人生で一番幸せだったと思いたくない、もっと、もっと幸せになりたいと最近思っています。

私も考え方の癖を治しながら、頑張りすぎず、笑顔でいれるように、そして、私と同じように一人で生きていけるでしょう!と思われて、辛いことも打ち明けられず、頑張っている40代の女性の気持ちも支えたいと思っています。一緒に幸せになりましょう!!

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